孫子兵法

孫子兵法

第六回 M・M 『やくにたつ兵法の名言名句』

〔2000/01/18〕

一般社団法人孫子塾塾長・元ラジオ日本報道記者
佐野寿龍

 


☆ やくにたつ兵法の名言名句 ☆


『呉子曰く、凡そ兵戦の場は、屍(しかばね)を止(とど)むるの地なり。死を必すれば則ち生き、生を幸(ねが)えば則ち死す。』

 …呉子・治兵第三…


◇ 解説 ◇

 上記の言は『そもそも戦場というところは、命のやり取りをするところ、間違えば命を落とし自分の屍(しかばね)を晒すところである。
 このような厳しさの極地・生死の関頭にたたされたところでは、迷うことなく死を覚悟して捨て身で戦うことである。そうすれば生き残る手立て(方法)も生じてこよう。
 しかし、生に磨u練を残し何とか助かりたいという了見で遅疑逡巡するならば命を失う羽目に陥るであろう』の意と解されます。

 この言は一見、のるかそるかの大勝負に出て「死中に活を求める」的な意味合いとも取れますが、実はそうではなく、平素における必死(命がけ)の心構えと正鵠(的)を射た信念・理念の持ちよう、そこから発する迷いのない決断力と行動力の重要性をいうものです。
 そのような準備と慎重さがあってこそ、いざことに臨んで初めて成功が得られるというのでしょう。

 このゆえに呉子は上記の言に続けて次のように曰っています。

『それよく将たる者は、漏船(ろうせん)の中に座し、焼屋(しょうおく)の下に伏するがごとし。智者をして謀るに及ばず、勇者をして怒るに及ばざらしむれば、敵を受くること可なり。故に曰く、兵を用うるの害は、猶予(ゆうよ)、最も大なり。三軍の災いは狐疑(こぎ)に生ず、と。』

 漏船とは、水の漏る船。焼屋とは、燃えている家。謀るに及ばずとは、(智者に)策略を弄させないこと。怒るに及ばざらしむとは、(勇者に)猛勇を発揮させないこと。

 敵を受くること可なりとは、どんな強敵でも立派に受けて立つことができること。猶予とは、ぐずぐずして決定(決行)を遅らせること。災いとは、ここでは軍を悲運に陥れること。狐疑とは、疑い深く、決心のつかないこと。

 逆に言えば、なぜ「猶予・狐疑」が生ずるのかというと、迷いがあるからなのであり、迷いは、(助かりたいという)欲から生ずるのです。
 一方、戦場は命のやり取りをするところですから、理論的にいえば「必死の覚悟」をすることが正鵠(的)を射た、あるいは本質をついた信念・理念と言うことになります。

 つまり、(助かりたい)という欲が生ずることは、本質的な意味での正しい信念・理念を覚悟していない、すなわち、分かっていないということになります。
 一瞬のためらいが生死を決する戦場にあっては、(相手が生死を超越した無欲、すなわち必死でかかってくる場合)それが命取りになるということなのです。

 このゆえに呉子は、良将とは、あたかも(いつ沈没し溺れ死ぬかも分からない)水の漏る船に乗っているときのように、あるいは(いつ焼け死ぬかも分からない)燃えさかる家の中に寝ているときように、いつも必死の心構えをもっている者だというのです。

 このような命懸けの覚悟は、ことに臨んでも動じない無欲の信念を生み、無欲なるがゆえに迷いがなく、迷いがないから(相手の)策略や猛勇を封じ込める強い行動力が期待できる、ということなのです。それが結果として、よりよく生きること、そして、つつがなく人生を全うする道につながるというのです。

 葉隠に曰う『武士道というは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進なり』も、決して生命軽視などではなく、本質的には上記と同じ趣旨であると解されます。

 ところで、上記にような、「(ことに際しての)生き死に」という観点から、日本人と中国人を比べてみた場合、一般的には次のように言われています。

 『日本人はすぐに生きるか死ぬか二つに一つと言いますが、中国人は違いますね。中国人は生きるか逃げるかと言います、しぶといですね。商売にしろ、外交交渉にしろ、実に掛け引きが上手い。』

 かつて、蒋介石も日本人について『彼らは何ごとであれ命懸けの「生きるか死ぬか」でかかってくる』と評したことがありますが、これは確かに日本民族の誇るべき優点ではありますが、反面、脆さと弱さが同居している優点でもあります。

 日本人の場合、用意周到の準備・万全の注意をはらうために必要としている「生きるか死ぬか」ではなく、目先的にしてあとさき見ずのヒステリックな形として現れる傾向が強いようです。

 このゆえにわれわれは、日本人の長所の反面にあるこの脆さと弱さを、しっかりと認識し、冒頭の言の本来の意味・あるいは目的を見失わないようにすることが重要なのではないでしょうか。

 言い換えれば、必死の覚悟はもちろん大事、しかし、それだけあれば充分というものではない。それを土台としてその上に広い視野をもち、万全の準備と用意周到な計画があってこそ、初めて「必死の覚悟」が生きてくる、ということではないでしょうか。
 それがない「必死の覚悟」は、単なる掛声、線香花火に過ぎないということができます。

 

○ 活用の指針 ○

 上記冒頭の言は、この平和な時代にあっては一見奇異に感ずるかも知れません。しかし、その本質は、ものごとを行う場合、正鵠(的)を射た理念とは何か、それに基づく戦略とは何か、それを首尾一貫して遂行する指導力とは何か、を明確にすることの重要性をいうものであります。

 その意味では、その応用範囲は極めて広いということができます。例えば、次のように言えます。

 事業の目的は、もとより利潤の追求にあります。しかし、それとは別に、事業にはその本来の役割、言わば事業の社会的責任ともいうべきものが厳然として存在しています。
 この根底にある任務を果たした後、その結果として生ずるものが利潤であります。目先の欲に目が眩んで、ただ儲かればいい、ということでは、企業生命としての継続性が危ぶまれます。

 いくら高位高官であっても、公共の利益に奉仕するという本来の任務を忘れ、自らの私腹を肥やすことのみに汲々とし、賄賂ばかりを要求しているようでは、政治家生命・役人生命を全うすることはできない、という理屈になります。

 われわれ個人の場合も、また然り、といえます。

 目先の欲望に振り回され、毎日遊び呆けていたら、動物としての生命は全うしても、より重要な人間としての価値・尊厳という生命が危機に瀕するということになりかねません。その意味で、呉子の言を味わうことも一興かと思います。

 それでは今回はこの辺で。

 

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